2024.07.31更新

<DR.大橋信昭、荒野を行く>   大橋信昭
まず自己紹介する。昭和28年7月31日生まれ。今日は誕生日である。71歳となる。私はどんな人間かを解説する前に、私の家族を紹介すれば、すぐに理解できる。
 まず父からである。昭和3年1月1に生まれ、半分極道、半分正義の人である。昭和20年8月15日、日本人は敗戦を玉音放送で聞いた。お爺さんに内緒で印鑑を盗み、特攻隊に志願していた父は
戦いはこれからである。「日本が負けるはずがない!」悪友と徒党を組み、GHQのアメリカ人が日本の芸者と歩いているところを、鉄砲がないから暗闇から、石ころで奇襲したらしい。これで3回、刑務所に入ったと親戚は親父のお通夜の日に、怒るし、調べれば町内の人で知らぬ人は無かった。父がサングラスをはめて、じっと座っていると、恐怖のオーラで誰も近づけなかった。敗戦と同時に全国、流浪の旅に出て、数か所、かたぎの職人になろうとしたが、3日と持たず解雇された。流れ流れ、長崎市へ着いた。長崎市は日本の西の極限にあり、これ以上逃げようがなかった。父は商売がうまくパチンコ店をはじめ、大成功し、20歳代で庭付きの一軒家を建て、女性従業員には手当たり次第、手をつけるし、遊郭通いが愉しみであった。かち上げはするし、チンピラは半殺しによくした。そして父が近くの薬局に努める母に恋をして、1歳の子供を持つ母親であったが略奪結婚し、大垣市へ駆け落ちし、私は長崎市で生まれていた。SLの煙い石炭のガスを覚えている。私の戸籍は長崎市である。父は言った。「信昭と名付けたこの子の為にかたぎになろう!」
私は幼児であるから寝ている間に、伝馬町でガソリンスタンドを始めた。よく繁盛し、早速、大垣市の暴力団の組長と大の仲良しになり、断る幼稚園を、親分の子供は全員、合格であった。ここに義理と人情の世界が始まった。賭場によく出かけ、朝にはおけらであった。子分がかたぎを恐喝し、一般市民は父に泣きついたが、父が組長に一言いえば、解決した。ある日、子分が父の店に石油泥棒に2人組で入ったが、焼きを入れられ、子分の顔の形が変形するぐらいに殴られ、再犯は無くなった。しかし、父は危うく刑務所に入るところであった。市役所、県庁の職員は父を怖がった。ある日、恐ろしいことに、父は事務所に入り、「お前はそろそろかたぎになれ!」と子分の前で怒鳴った。生きて帰れるのは父ぐらいである。そのころ、市民は貧乏でガソリンも月末払いであったが、2か月も滞納したら、そのお客さんは全身打撲に逢い、家の金目のものは父はもぎ取った。僕が覚えていることでユニークなのは、ネズミを溺死させ、一流お菓子屋の箱に入れ、よく目立つところに放置した。父は張り込みをした。そうすると、ありがたく家に持って帰る人と、警察に届ける人に分かれた。かならず「ギャー」と悲鳴が聞こえた。父はライフルで毎週日曜日に、猟に出かかけた。多量の鳥やウサギを収穫した。まだ息がある小鳥は私の前で絞殺した。びっくりするのは、家の中を這いずるねずみをライフルで仕留めた。家中、ネズミの肉だらけになった。こんな怖い父に私は「医学部を受験したい。」といった。父は「一銭も働かずに、参考書は、俺の金で工面したが、絶対入れ!世の中、そんな甘いものではない!」僕は恐怖で医学部受験に臨んだ。初日は堕ちたら殺されると思って、眠れなかった。何とか合格できたので、今、伝馬町に大橋医院があり、私は院長として働いている。父は平成4年、胃癌(スキルス)で他界した。生前の行為を顧みても長生きするはずは無かった。私は用心棒を無くした。暴力団とも縁を切り、母と妹と妻と商売を頑張った。母は池坊の教授であり、そこから多量の金が私に使われ学費は困らなかった。母はよく父に殴られ、歯を折ったこともある、ブラジャーは引きちぎられ、私は父の前でよく土下座し「母を助けてください」と誤った。私は母がどうして父を怒らせるのかわからなかった。土下座しないと母は入院になる。しかし、母は横着そのもので、新幹線はどんなに満員であろうと、大橋家には母のおかげでゆったりと椅子に座ることができた。大阪万博はいつもゆったりと往復できた。母は私には「小学校、中学校、成績は一番、二番は許さん!」岐阜高校に入り、医学部に入り、医師になり、医学博士を取りなさい!」その通りの道を歩んだ。「嫁は私に任せなさい!恋愛禁止!」今もその妻と口げんかしながら、今日も仕事だ。妹は4年、年下で勉強が全く出来ず、随分家庭教師をやらされた。母は84歳で不慮の事故で他界した。母は長崎の原爆の被爆者であり、私と妹も被爆者2世であり、二人とも、身体障害を持ち、心房中隔欠損症は共通であった。
2年前に突然死した。私も怖くなり循環器専門医に定期的に診察してもらっている。突然死におびえながら!せっかく医師になれたのだ!診察室で聴診器をもって昇天したい。残り少ない人生、多くの患者さんを助けたい。
”死んでも、大橋信昭医師は聴診器を話しませんでした“(完)

投稿者: 大橋医院

2024.07.31更新

<DR.大橋信昭、荒野を行く>   大橋信昭
まず自己紹介する。昭和28年7月31日生まれ。今日は誕生日である。71歳となる。私はどんな人間かを解説する前に、私の家族を紹介すれば、すぐに理解できる。
 まず父からである。昭和3年1月1に生まれ、半分極道、半分正義の人である。昭和20年8月15日、日本人は敗戦を玉音放送で聞いた。お爺さんに内緒で印鑑を盗み、特攻隊に志願していた父は
戦いはこれからである。「日本が負けるはずがない!」悪友と徒党を組み、GHQのアメリカ人が日本の芸者と歩いているところを、鉄砲がないから暗闇から、石ころで奇襲したらしい。これで3回、刑務所に入ったと親戚は親父のお通夜の日に、怒るし、調べれば町内の人で知らぬ人は無かった。父がサングラスをはめて、じっと座っていると、恐怖のオーラで誰も近づけなかった。敗戦と同時に全国、流浪の旅に出て、数か所、かたぎの職人になろうとしたが、3日と持たず解雇された。流れ流れ、長崎市へ着いた。長崎市は日本の西の極限にあり、これ以上逃げようがなかった。父は商売がうまくパチンコ店をはじめ、大成功し、20歳代で庭付きの一軒家を建て、女性従業員には手当たり次第、手をつけるし、遊郭通いが愉しみであった。かち上げはするし、チンピラは半殺しによくした。そして父が近くの薬局に努める母に恋をして、1歳の子供を持つ母親であったが略奪結婚し、大垣市へ駆け落ちし、私は長崎市で生まれていた。SLの煙い石炭のガスを覚えている。私の戸籍は長崎市である。父は言った。「信昭と名付けたこの子の為にかたぎになろう!」
私は幼児であるから寝ている間に、伝馬町でガソリンスタンドを始めた。よく繁盛し、早速、大垣市の暴力団の組長と大の仲良しになり、断る幼稚園を、親分の子供は全員、合格であった。ここに義理と人情の世界が始まった。賭場によく出かけ、朝にはおけらであった。子分がかたぎを恐喝し、一般市民は父に泣きついたが、父が組長に一言いえば、解決した。ある日、子分が父の店に石油泥棒に2人組で入ったが、焼きを入れられ、子分の顔の形が変形するぐらいに殴られ、再犯は無くなった。しかし、父は危うく刑務所に入るところであった。市役所、県庁の職員は父を怖がった。ある日、恐ろしいことに、父は事務所に入り、「お前はそろそろかたぎになれ!」と子分の前で怒鳴った。生きて帰れるのは父ぐらいである。そのころ、市民は貧乏でガソリンも月末払いであったが、2か月も滞納したら、そのお客さんは全身打撲に逢い、家の金目のものは父はもぎ取った。僕が覚えていることでユニークなのは、ネズミを溺死させ、一流お菓子屋の箱に入れ、よく目立つところに放置した。父は張り込みをした。そうすると、ありがたく家に持って帰る人と、警察に届ける人に分かれた。かならず「ギャー」と悲鳴が聞こえた。父はライフルで毎週日曜日に、猟に出かかけた。多量の鳥やウサギを収穫した。まだ息がある小鳥は私の前で絞殺した。びっくりするのは、家の中を這いずるねずみをライフルで仕留めた。家中、ネズミの肉だらけになった。こんな怖い父に私は「医学部を受験したい。」といった。父は「一銭も働かずに、参考書は、俺の金で工面したが、絶対入れ!世の中、そんな甘いものではない!」僕は恐怖で医学部受験に臨んだ。初日は堕ちたら殺されると思って、眠れなかった。何とか合格できたので、今、伝馬町に大橋医院があり、私は院長として働いている。父は平成4年、胃癌(スキルス)で他界した。生前の行為を顧みても長生きするはずは無かった。私は用心棒を無くした。暴力団とも縁を切り、母と妹と妻と商売を頑張った。母は池坊の教授であり、そこから多量の金が私に使われ学費は困らなかった。母はよく父に殴られ、歯を折ったこともある、ブラジャーは引きちぎられ、私は父の前でよく土下座し「母を助けてください」と誤った。私は母がどうして父を怒らせるのかわからなかった。土下座しないと母は入院になる。しかし、母は横着そのもので、新幹線はどんなに満員であろうと、大橋家には母のおかげでゆったりと椅子に座ることができた。大阪万博はいつもゆったりと往復できた。母は私には「小学校、中学校、成績は一番、二番は許さん!」岐阜高校に入り、医学部に入り、医師になり、医学博士を取りなさい!」その通りの道を歩んだ。「嫁は私に任せなさい!恋愛禁止!」今もその妻と口げんかしながら、今日も仕事だ。妹は4年、年下で勉強が全く出来ず、随分家庭教師をやらされた。母は84歳で不慮の事故で他界した。母は長崎の原爆の被爆者であり、私と妹も被爆者2世であり、二人とも、身体障害を持ち、心房中隔欠損症は共通であった。
2年前に突然死した。私も怖くなり循環器専門医に定期的に診察してもらっている。突然死におびえながら!せっかく医師になれたのだ!診察室で聴診器をもって昇天したい。残り少ない人生、多くの患者さんを助けたい。
”死んでも、大橋信昭医師は聴診器を話しませんでした“(完)

投稿者: 大橋医院