2025.01.29更新

<ご先祖様 ありがとうございます。> 巳年 大橋信昭
 私は毎日、仕事が終わると、今日の診療が無事に終了し、事故もなく、患者さんからの感謝の言葉も頂き、これはご先祖様のおかげであると、仏壇に毎日、お祈りをして、お礼申し上げます。
週末の土曜日になると、お墓に線香をつけ、この1っ週間が無事であったことを感謝します。頭を垂れ、両手を合わせ感謝申し上げます。これからご先祖様が助けていただいたとしか考えられない五つの事例を書写します。是非ご購読ください。
1) ある日の午前2時頃のことでございます。私は深く眠っていたのでございますが、突然“起きろ、玄関へ行け”と命令が聞こえたのでございます。玄関へ行きますと、外から人相の悪い大男が、鑢で窓ガラスを破壊しようとしていたのです。玄関から外来に入り、室内を物色し、金品を略奪しようとしていたに違いありません。ところが、その盗賊は私と視線が合致しますと、驚いて大橋医院の西に、仲間が車にエンジンをかけて待機しておりまして、慌てて飛び乗り、二人の強盗は北へ逃走したのです。もし、玄関がこじ開けられていたら、私と家内はその盗賊の持っていた凶器により、命を奪われ、院内にある金品を略奪されていたでしょう。まず、何故、深夜の2時に、私を起してくださり、玄関まで移動し、盗賊と視線が合い、盗賊はしかも中に押し入るどころか、一目散に逃走したのでございます。私共、命も助かり、何の被害もなく、警察に電話しましたが、「お気を付けください!」との一言でした。それにしても、どなたが私たち家族を助けてくださったのでしょう?深夜2時に起こしてくださったのは、ご先祖様に間違いありません。ご先祖様、ありがとうございました。
2) 私にも初孫ができたことを長女が、当院すなわち実家に帰ったときに告白したのでございます。これはうれしいことでございます。予定日は8月10日、とても待ちどうしいことです。やがて、早いもので歳月が流れ、出産が近づきますと、当院の近くで、名医の産婦人科医に出産を御願いしました。無事安産、母子ともに健康を祈るのみでございます。やがて8月10日がやってまいりました。私はしっかり熟睡しておりましたが、早朝3時頃、何となく長女が出産を予定しておりました産院へ、何気なく出向いたのです。次女がちょうど玄関におりまして「パパ、今日子(長女)ちゃん、女の子を今、出産したのよ!」と、とても興奮しておりました。私も出産時間がわかっていたように産院へ赴いたのです。生まれたばかりの初孫の長女を拝めました。不思議ですね?何故、そんなにタイミングよく産院へ行けたのでしょう?これもご先祖様のおかげです。ありがとうございます。
3) ある日曜日の初冬の流感が暴れていた時です。チャイムが鳴り、急患です。単行本を読んでいただけなので、診察することにしました。「どうしました?」と私が尋ねますと「発熱、咳、痰、のどが痛く、寒気がする」といいました。私は、インフルエンザとコロナでないことを確認し、感冒の治療に専念しようとしました。ところがです。どうしてでしょう?何となく、超音波装置を取り出し、肝臓の検査を始めたのです。私には何故だかわかりません。腹部の右季肋部を露出して、ゼリーを塗り肝臓の精査をはじめました。なんと!直径3cm大の腫瘍があるではありませんか!不思議ですね。私は、素早く感冒の治療を済ませ、患者さんに、肝臓に腫瘤があるから大垣市市民病院の消化器内科に紹介状を書いておくから早々に、診察を受けなさいと言いました。早期の肝臓がんでしたから大垣市民病院に治療していただき、その患者さんは今も元気です。私がその患者さんを感冒疾患のみとして帰していたらどうなっていたでしょう?どうして肝臓の精査をしたのでしょう?やはり腫瘤があり、早期発見、私を命の恩人といってくれます。これもご先祖様のおかげです。
4) 私が、名古屋市立大学医学部を受けたのは、昭和48年でした。
20倍の倍率、定員60人に1200人以上の受験生が詰めかけたのです。当時の担任の先生は「君の成績では難しいね」といいながらいやそうに内申書を書いてくれました。父親に医学部を受験することを懇願しました。父は「受かるのか?」私は「頑張ってみます。」といったら「馬鹿者!」と右頬を思いっきり殴られました。「俺は、親から一銭ももらわずに、今の商売をやっている!お前なんか、しっかり学費を俺からもらっておきながら、何故、受かりますと言わないのか!」それから人生教訓3時間、私は直立不動、いつ殴られるか分からず緊張した。受験日はやってきた。合格定員60人の所に1200人以上の受験生が詰めかけた。極めて厳しい関門である。私の受験番号は1090番、前日、父親に驚かされたので、不合格ならば殺されると思い、一睡もできなかった。しかし、初日の化学、生物、英語は何とか出来が良かった気がした。二日目は初日が寝ていないから、今日はよく寝ようと無理に風邪薬を飲みよく眠れた。二日目は国語、数学である。900点満点で、化学と生物は合計300点、国語と英語は合計300点、数学は300点である。数学は5問あった。すなわち数学は5問全正解でないと、20倍の医学部は絶対に合格しないのである。
数学以外順調であったのだが、数学のうち4問はすぐに回答できた。ところがある問題のみ、分からなかった。三角形に直線を引き、それによってできる面の数を述べよ。“三角形に引く線は1から無限大でありその直線の数をnとしたときにできる面の数の方程式を述べよ!”という問題であった。72歳の私はこれが解けないのである。18歳の時は解けたのであるが、3時間数学の回答時間のうち、2時間かかった。三角形に1本線を引けば面の数は2である。ところが三角形に2本、3本、4本、、、、20本、、、無限大に線を引くと面の数はどうなるのか?これには降参直前であった。あてられた用紙に目いっぱい三角形を書いて頭を抱えた。すると、どこからか、“数学的帰納法”というようなこだまのような音が響いた。なるほど,すぐに解けた。まず数学は満点であろう。この数学的帰納法をささやいてくださったのはご先祖だ!ご先祖様ありがとう!試験は終わった。あとは合格を待つのみである。しかし、この名古屋市立大学医学部の合格発表は、深夜0時なのである。私は、発表を見に行く勇気がなく母に見に行ってもらった。合格なら電話するが、不合格なら電話しないとの約束であった。深夜0時が過ぎても電話はかからない。30分、1時間、かからない、、あー不合格か?しかし、深夜2時に母は帰宅し「合格よ」と私の家は幸福に包まれた。これもご先祖様のおかげです。ありがとう。
5) 私が大垣市立東中学校の校医になり30年近くなるが、初めて校長室で、先輩の校医達とお話ができたのは平成7年ごろかも知れない。僕は先輩の校医達に「これだけの大勢の生徒の心雑音を聴取するのは大変ですね!」と聞いたら、ある先輩は「小生はもう厚意を40年やっているが、心雑音など聞いたことがない!」と不機嫌になられた。この医学の世界に心雑音は存在しないみたいな発言だ!いちばんやさしそうな先輩の校医に聞いてみると、皆さん、元軍医で、大東亜戦争の末期、敗戦近い日本に、戦場で間に合う医師を急いで育成し、主に戦場での外傷を素早く処置できる医師を多数育成し、戦地に送り込んだそうだ。2年間の専門教育で学問など後回しであったそうだ。これは大変だ!先天性心疾患、弁膜症は見逃されているに違いない。今、生きている東中学校の先輩の聴診を全員することは不可能であるから、養護教員とも相談し、心臓症状のある人は、私は時間、曜日問わず、コツコツと聴診を真剣に、超音波検査も兼ね合わせて、2年間、思いっきりやってみた。やはり、出てきた。心房中隔欠損症、心室中核欠損症、動脈管開存症、肺静脈還流異常症、大動脈二尖弁、大動脈狭窄症、大動脈閉鎖不全、心筋症、などきりがない心疾患が見逃され、高校、大学、社会人入社検診で見逃されていることが分かった。私は、考えに考え、親しい人を頼って、病気の説明、手術の必要性を理解して受けてくれる人をできるだけ努力した。大垣市民病院の循環器スタッフと協力しながら、手術を受けてくれる人が増大していった。手術しなければ肺高血圧からアイゼンメンジャー症候群、在宅酸素療法を受けても、内科的治療では短命になってしまう。私は嫁入り前のお嬢さんから泣きつかれたり、どうしても俺の息子が手術を受けねばいけないのかと怒鳴られたりした。紆余曲折があったが、多くの憎しみを受けたが、今、手術を受けた人は、長生きをして普通の生活やスポーツまでして日常生活を楽しんでおられる。これからも聴診と心臓の診察は命がけだ。手術しなければ個人差あるが20代から心不全症状が始まり、短命かなのだが、根治的手術さえ受ければ今は100歳近く生きられる。手技も発達し、カテーテル、人工弁膜など、手術なしで治る方法が急速に発達している。私もがんばらねばいけない。私が循環器を選択したのも、多くの患者さんを助けることができたのもご先祖様のおかげである。
ご先祖様、ありがとう。今日も仏壇に手を合わせ、週末にはお墓に行き、ご先祖様にお礼を言おう!(完)

投稿者: 大橋医院